2026.09.02

認知症の入居者と結んだ契約は無効になるのか|決めるのは診断名ではなく「その日の状態」

約3,200文字読了目安 6分

更新の時期が来たので書類を持って部屋を訪ねた。以前とは様子が違う。話は噛み合わないまま、それでも署名と押印はもらえた——。この更新契約書は有効なのか。貸主からの相談で意外に多いのがこの形です。

珍しい場面ではありません。厚生労働省の将来推計では、2022年時点の高齢者の認知症有病率は12.3%(443.2万人)、軽度認知障害(MCI)は15.5%(558.5万人)合計約27.8%。高齢入居者の4人に1人以上がこの線上にいる計算です。

認知症の入居者と結んだ契約は無効になるのか

根拠になるのは民法第3条の2です。「法律行為の当事者が意思表示をした時に意思能力を有しなかったときは、その法律行為は、無効とする」と定めています。更新契約も解約も賃貸借契約そのものも法律行為ですから、この条文の射程に入ります。

厄介なのは「無効」という言葉の重さです。取消しと違って追認で有効にすることが難しく、相続人や後見人が後日それを主張してくることもあります。手続きが終わってから覆り得る、という点が貸主にとってのリスクです。

決めるのは診断名ではなく「意思表示をした時」

ただし条文をもう一度読むと、書いてあるのは「意思表示をした時に」です。認知症の診断がある、要介護認定を受けている、というだけで自動的に無効になるとは書かれていません。逆に、診断を受けていなくても、その日その場面で内容を理解できていなければ問題になり得ます。

つまり判断の対象は人の属性ではなく、その一回の手続きの場面です。誰が同席し、何をどう説明し、本人がどう答えたか。契約書の日付だけでなく、そのやり取りを記録に残しておくことが、後日の争いで意味を持ちます。

「診断書があるから無効」でも「診断書がないから安全」でもありません。見るのは、書面を交わしたその日の理解の状態です。

更新契約書にサインをもらえないとき、契約はどうなるのか

ここで多くの貸主が誤解しています。サインが取れなければ契約が切れる、わけではありません。借地借家法第26条第1項は、期間の定めがある建物賃貸借について、当事者が期間満了の1年前から6か月前までの間に更新をしない旨の通知をしなかったときは、従前の契約と同一の条件で更新したものとみなすと定めています(ただし期間は定めのないものとなります)。更新料の合意など新たな条件を作る場面でなければ、無理に署名を取りに行く必要はありません。

なお貸主から更新を断るには同法第28条の正当事由が必要で、高齢であること自体は理由になりません。線引きは「高齢だから更新しない」は通るのかで整理しています。

本人からの解約の申し出は受けてよいのか

解約も法律行為ですから、第3条の2は同じように及びます。そして解約のほうが、無効になったときの被害は大きくなります。明渡しを受け、原状回復を行い、次の入居者を決めたあとで解約が無効だったとなれば、巻き戻す対象が一つでは済みません。急ぐ場面ほど、書面で残す・第三者に同席してもらう・親族に連絡した記録を残す、という手順を省かないことです。

家族のサインで代われるのか

「息子さんが署名すると言っている」というケースもよくあります。しかし家族というだけでは代理権は生じません。有効な代理には本人からの委任か、法定代理人としての地位が必要です。

親族が本人に代わって署名した書面は、代理権がなければ本人に効力が及びません。意思能力に不安がある状態での委任状も同じ問題を抱えます。手続きを進める前に弁護士や司法書士へご相談ください。本記事は一般的な整理であり、個別の有効・無効を判断するものではありません。

成年後見・保佐・補助で、手続きの相手が変わる

法定代理人が就いていれば話が変わります。民法第9条は成年被後見人の法律行為は取り消すことができる(日常生活に関する行為を除く)と定め、この場合は成年後見人が手続きの相手方になります。

ただし「後見人が就いた」と聞いても、実際には保佐や補助のことがあります。最高裁判所「成年後見関係事件の概況」(令和7年1月〜12月)によれば、令和7年12月末の利用者数は総数259,901人で、成年後見180,828人・保佐58,162人・補助18,078人・任意後見2,833人。保佐と補助で約29%を占め、開始原因の61.3%は認知症です。

被保佐人との2年契約に、保佐人の同意は要るのか

保佐と補助では、本人の行為能力が全面的に制限されるわけではありません。民法第13条第1項は保佐人の同意を要する行為を列挙しており、賃貸借に関係するのは第9号「第602条に定める期間を超える賃貸借をすること」。その第602条第3号は建物の賃貸借を3年と定めています。

したがって普通借家の2年契約は、文言上この列挙に当たりません。ただし同条第2項により、家裁が列挙以外の行為にも同意を要する審判をしている場合があります。補助はさらに個別的で、第17条第1項の審判で定めた特定の行為に限られます。確かめるべきは診断名ではなく、登記事項証明書や審判書の記載です。

取り消されたら、受け取った家賃はどうなるのか

民法第121条の2第3項は、行為の時に意思能力を有しなかった者や制限行為能力者は「現に利益を受けている限度」で返還すれば足りると定めます。清算で貸主が回収できる範囲は、通常の解約より狭くなり得ます。

一方で貸主にも使える条文があります。民法第20条の催告権です。制限行為能力者の相手方は、保佐人や補助人に対し1か月以上の期間を定めて追認するかの確答を求めることができ、本人に対しては追認を得るべき旨を催告できます。前者で確答がなければ追認、後者で通知がなければ取消しとみなされます。宙ぶらりんの状態を貸主の側から終わらせる手段があるということです。

まとめ:診断名を確かめる前に、契約の種類を確かめる

  1. 無効かどうかは「その日の状態」で決まる。第3条の2が見るのは意思表示の時点です
  2. サインが取れなくても契約は続く。借地借家法第26条第1項の法定更新があります
  3. 手続きの相手は後見・保佐・補助で変わる。約29%は保佐・補助で本人に行為能力が残ります
  4. 宙ぶらりんは催告で終わらせられる。第20条が相手方に確答を求める権利を与えます

いずれの手続きも、判断能力が下がりきる前に動けるかで難易度が変わります。金銭管理だけが難しくなった段階の受け皿は日常生活自立支援事業に、契約を終わらせる段階は入院・施設入所と成年後見人による解約にまとめています。早く気づくほど、選べる手が多く残ります。自分の物件に何が欠けているかは、60秒のリスク診断でも確認できます。

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