2026.08.25

認知症の入居者が火事・水漏れを起こしたら、誰に請求できるのか|大家に残る一本のルート

約3,200文字読了目安 6分

コンロを消し忘れて小火(ぼや)になった。浴槽の湯を止め忘れて階下に漏れた。入居者に認知症の疑いがあると、現場でまず頭をよぎるのが「この人に請求できるのだろうか」です。ネット上の「認知症の人は責任を負わない」という説明は、半分は正しく半分は誤りです。塞がるのは一本の道で、大家にはもう一本、性質の違う道が残っています。

「認知症だから請求できない」は半分だけ正しい

前提として、これは例外的な場面ではありません。厚生労働省「認知症および軽度認知障害(MCI)の高齢者数と有病率の将来推計」によると、2025年の認知症高齢者数は471.6万人、高齢者における有病率は12.9%、MCIを加えると2022年時点で約28%と推計されています。高齢の入居者が8人いれば1人という計算です。

そして請求経路には性質の異なる2本があります。契約関係のない相手にも使える不法行為のルートと、契約を結んだ相手にだけ使える債務不履行のルートです。認知症で塞がるのは前者だけです。

不法行為のルートは二重に塞がる

まず民法第713条は、精神上の障害により自己の行為の責任を弁識する能力を欠く状態にある間に他人に損害を加えた者は、その賠償の責任を負わないと定めています。認知症が進み、行為の意味を理解できない状態であれば、民法第709条の不法行為責任は成立しません。これが一枚目の壁です。

二枚目が失火責任法(失火ノ責任ニ関スル法律・明治32年法律第40号)です。同法は、民法第709条の規定は失火の場合には適用しない、ただし失火者に重大な過失があったときはこの限りでない、と定めています。火災に限っては、責任能力があっても軽い不注意にとどまるなら不法行為責任を問えません。

結果として、隣室や階下の入居者、隣家といった契約関係のない被害者は、認知症の入居者の失火に対してほぼ打つ手がありません。ここが「認知症だから請求できない」という説明の出どころです。

水漏れに失火責任法の適用はありません。ただし第713条の壁は残ります。

大家にだけ残るのが「契約のルート」

ところが大家と入居者の間には賃貸借契約があります。入居者は借りた部屋を善良な管理者の注意をもって保管する義務を負い(民法第400条)、退去時には損傷を原状に復する義務を負います(民法第621条)。火事や水漏れで部屋を損なえば、この保管義務に反したことになり、民法第415条の債務不履行にあたります。

ここで効いてくるのが、失火責任法は不法行為責任の特則であって、債務不履行責任には適用されないという古くからの判例法理です(大審院明治45年3月23日判決。公益社団法人全日本不動産協会の法律相談でも同じ整理が示されています)。大家は、入居者の過失が重過失に至らない「うっかり」であっても、契約上の責任として損害賠償を求められます。

そして責任能力は不法行為責任の要件であって、債務不履行責任の要件ではありません。民法第713条は不法行為の章に置かれた規定で、賃貸借契約上の債務について責任能力を求める条文は存在しません。認知症の入居者に対しても、契約のルートは原則として閉じないということです。

ただし債務不履行責任にも「債務者の責めに帰することができない事由」による免責(民法第415条第1項ただし書)があり、認知症の程度によっては帰責事由の有無が争われる余地があります。請求・回収に進む場合は必ず弁護士にご相談ください。

家族に請求できるか──最高裁は当然には認めなかった

次に浮かぶのが「離れて暮らす息子さんに請求できないか」です。民法第714条第1項は、責任無能力者が責任を負わない場合に、その者を監督する法定の義務を負う者が賠償責任を負うと定めています。

この条文の射程を狭く画したのが、最高裁判所第三小法廷 平成28年3月1日判決(平成26年(受)第1434号・第1435号)です。認知症の男性が線路に立ち入り列車に衝突し、鉄道会社が妻と長男に賠償を求めた事件です。判決は、民法第752条の夫婦の同居・協力・扶助義務は夫婦間で相互に負う義務であって第三者との関係で作為義務を課すものではないとし、同居する配偶者だからといって「責任無能力者を監督する法定の義務を負う者」に当たるとすることはできないと述べました。長男についても、そう解する法令上の根拠はないとしています。

そのうえで判決は、監督を引き受けたとみるべき特段の事情があれば「法定の監督義務者に準ずべき者」として第714条が類推適用されるとし、親族関係の濃淡、同居の有無その他の日常的な接触の程度、財産管理への関与、監護や介護の実態などを総合考慮して判断すべきだとしました。結論として、要介護1の85歳の妻も、20年以上別居していた長男も該当しないとされました。

実務への含意ははっきりしています。「家族がいるのだから家族に請求すればよい」という前提は成り立ちません。身元保証人や緊急連絡先に家族の名前が控えてあっても、それは監督義務を基礎づけるものではないからです。

実務の問いは「誰に」ではなく「どこから」

大家が現実に回収を検討できる先は、次の3系統に絞られます。

裏を返せば、効くのは事故が起きる前の確認だけです。事故当日にできるのは、この3点の答え合わせにすぎません。

まとめ:請求先を探す前に、契約書と保険証券を見る

  1. 不法行為のルートは塞がる。第713条で責任能力が否定され、火災はさらに失火責任法が重過失を要求します
  2. 大家の契約のルートは残る。善管注意義務違反による債務不履行に失火責任法の適用はなく、責任能力も要件ではありません
  3. 家族は当然には責任を負わない。最判平成28年3月1日により、配偶者・子であることだけでは監督義務者になりません
  4. 回収は連帯保証人・保証会社・保険の3系統。いずれも契約時と更新時にしか整えられません

もうひとつ金額を左右するのが、気づくまでの時間です。認知症が疑われる段階でのサインの拾い方や、住宅用火災警報器が「鳴る状態か」の確認生活の変化を検知する仕組みは、請求先を増やすものではありませんが、請求すべき金額そのものを小さくします。自分の物件でどの備えが欠けているかは、60秒のリスク診断でも確認できます。

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