入居者から「手すりを付けたい」と言われたら|介護保険の住宅改修と貸主の承諾書・原状回復
「浴室に手すりを付けたい」「玄関の段差を何とかしたい」。長く住んでいる高齢の入居者から、管理会社を通じてこうした相談が届くことがあります。工事と聞いた時点で反射的に断る貸主は少なくありませんが、その多くは介護保険の住宅改修費の対象であり、しかも賃貸住宅では貸主の承諾書がなければ入居者側の手続きが完結しません。可否を保留したまま時間が過ぎるのが、現場でいちばん多い詰まり方です。
高齢者のけがは、外ではなく部屋の中で起きている
東京消防庁「救急搬送データからみる高齢者の事故」によると、令和6年中に日常生活の事故で救急搬送された高齢者は98,056人。このうち事故種別「ころぶ」が73,500人と最も多く、初診時程度では約4割が入院の必要がある中等症以上と診断されています。
さらに「ころぶ」事故のうち発生場所が「住宅等居住場所」だったのは42,180人で、その9割以上にあたる39,053人が屋内での発生でした。屋内の内訳は「居室・寝室等」が29,783人と突出し、次いで「玄関・勝手口等」「廊下・縁側・通路」と続きます。転倒は、階段や屋外ではなく、住み慣れた居室と、玄関・廊下という毎日通る動線で起きているということです。
入居者の身体状況が変われば、同じ部屋が同じ安全性を保つとは限りません。設備の側から住まいの安全を見直す視点は、高齢入居者と住宅火災の防火チェックでも取り上げました。
介護保険の住宅改修でできる6区分
厚生労働省「介護保険における住宅改修」によれば、要介護者等が自宅に手すりを取り付ける等の改修を行うときは、必要な書類を添えて申請書を提出し、工事完成後に費用発生の事実がわかる書類等を提出することで、住宅改修費が償還払いで支給されます。対象は次の6区分です。
(1)手すりの取付け/(2)段差の解消/(3)滑りの防止及び移動の円滑化等のための床又は通路面の材料の変更/(4)引き戸等への扉の取替え/(5)洋式便器等への便器の取替え/(6)その他前各号の住宅改修に付帯して必要となる住宅改修。
支給限度基準額は20万円で、要支援・要介護区分にかかわらず定額とされています。原則としてひとり生涯20万円までですが、要介護状態区分が3段階上昇したときや、転居した場合には再度設定されます。
手続きは工事の前が原則です。ケアマネジャー等への相談 → 申請書類の提出と保険者による確認 → 施工 → 完成後の正式な支給申請、という順で進みます。貸主に承諾の相談が来た時点では、通常まだ工事に着手していません。返事が遅れるほど、入居者の生活のほうが先に不便になります。
賃貸で必要になる「住宅の所有者の承諾書」
同資料は、支給申請時の提出書類として「住宅の所有者の承諾書(住宅改修を行った住宅の所有者が当該利用者でない場合)」を挙げています。賃貸住宅では、貸主の承諾書がなければ支給の手続きが完結しない仕組みです。
契約の側から見ても同じ結論になります。国土交通省の賃貸住宅標準契約書(平成30年3月版)第8条第2項は「乙は、甲の書面による承諾を得ることなく、本物件の増築、改築、移転、改造若しくは模様替又は本物件の敷地内における工作物の設置を行ってはならない」と定めています。手すりの取付けや扉の取替えはこれに該当し得るため、書面での承諾は制度上も契約上も避けて通れません。同契約書には「増改築等承諾書(例)」の書式も付属しています。
申請するのは被保険者である入居者本人(または家族・ケアマネジャー等の支援者)であり、貸主が代わりに申請することはできません。貸主の役割は、承諾するかどうかを判断し、その条件を書面に残すところまでです。
承諾の前に、退去時の扱いを書面で決める
承諾で最も揉めるのは、退去時に元へ戻すのかどうかです。標準契約書第15条は「乙は、通常の使用に伴い生じた本物件の損耗及び本物件の経年変化を除き、本物件を原状回復しなければならない」と定め、国土交通省「原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版)」も、経年変化や通常の使用による損耗は貸主負担、借主の故意・過失や善管注意義務違反等による損耗は借主負担という考え方を示しています。ただし住宅改修は通常損耗ではなく承諾に基づく積極的な変更なので、この線引きだけでは答えが出ません。
加えて、民法第622条が準用する第599条第1項により、賃借物から分離することができない物や、分離するのに過分の費用を要する物については収去義務を負わないとされています。壁に固定した手すりや床材の変更がこれに当たる場合、「退去時に必ず撤去させる」という前提自体が成り立たないことがあります。
そのため標準契約書の解説も、増改築等の際には原状回復の有無・有益費償還請求・造作買取請求の有無について、承諾書の中であらかじめ合意しておくことが望ましいとしています。実務上は少なくとも次の3点を書面化しておくと安全です。
①退去時に撤去を求めるか、そのまま残置とするか。②撤去する場合の費用を誰が負担するか。③工事の内容と範囲(見積書・図面・施工前後の写真を添付)。
断るより、条件を付けて承諾するほうが合理的な場合
手すりや段差解消は、その入居者だけのための工事とは限りません。手すり・引き戸・段差の少ない動線は、次の募集でも訴求材料になり得る要素です。どの設備が高齢入居者に響くかは高齢入居者に選ばれる部屋の設備・間取りに整理しました。単身高齢世帯が増えるなかで受け入れ側に回る意味は、空室対策としての高齢者入居をデータで検証でも数字から確認しています。
もっとも、改修が転倒の可能性を下げる方向に働くとしても、事故が起きないことを保証するものではありません。工事の内容や物件の構造によっては承諾が難しい場合もあり、判断は個別です。断る場合でも、理由と代替案(可動式の手すり、置き型の段差解消など固定を伴わない方法)を伝えられると、相談が別のトラブルに転じにくくなります。
まとめ:工事の可否ではなく、条件の設計と考える
賃貸住宅の住宅改修は、「工事を認めるか否か」の二択に見えて、実際は承諾書にどの条件を書くかという設計の問題です。制度上は所有者の承諾書が必須、契約上は第8条第2項で書面承諾が必要、退去時の扱いは民法とガイドラインだけでは決まらない。この3点を押さえていれば、相談が来てから調べ始める必要はありません。
そしてもう一つ。改修は住まいの形を変えますが、変化に気づく仕組みまでは作ってくれません。手すりを付けた後に生活リズムが変わっていないかを日々受け取れる経路があると、次の一手を打つ時期を逃しにくくなります。スマートメーターによる見守りはその一例です。ご自身の物件で今どこにリスクが残っているかは、60秒のリスク診断でも確認できます。